女性アイドル
アグネスチャン
アグネスチャンは、海外に留学しても、結婚しても、注目を浴び、アイドル時代とあまり容貌が変化しない。
息の長いアイドルである。
アイドル時代を振り返って、いまさらながら、疑問点と言えば、
アグネス「ちゃん」という愛称で呼ばれていたのか?
そうであれば、本来、「チャン」は苗字なのだから、アグネス・チャンちゃんが正しいのではないだろうか?
日本に来た頃、和食で出された海苔にびっくりしたという。
「海の藻屑を食べるのか」、と。
海苔が嫌いだったところは、大韓航空機事件の女スパイ金賢姫に相通じるものがある。
今では、日本から技術輸出したおかげで韓国も海苔を食べるようになったが、
金賢姫は、韓国のKGBに逮捕され取調べを受けていた。
当初、自分は、蜂谷真由美という日本人だと主張していた。
しかし、だされた食事を見て、日本人が海苔を食べることを知らず、
「この黒い紙は何ですか?」
と取調べをするKGBに質問したことから、日本人ではないことが発覚した。
アグネスチャンは、日本に暮らして何年たっても、中国訛りが抜けない。
というか、あのしゃべり方を、広めようとしているようにも思える。
その成果かどうかはしらないが、
アグネスチャンの独特の流れるような中国語のイントネーションは、
日本のほとんどのメーカーのカーナビの標準音声に採用されるまでになった。
どうにも納得できないのが、代表的なヒット曲の「ひなげしの花」。
恋を夢見る乙女が、想いを寄せる人との出会いを花占いで占うというフレーズ。
「♪おっかの上ン~、ひンなげしのン~花でえ~
うっらなうのン、あンの人のことを
・・・・・
来る、来ない、帰らない、帰る」
ひなげしの花の花びらの数をご存知だろうか?
4枚である。
疑問とは、
たった4枚の花びらで花占いをするだろうか?
やった場合の、結果はすぐにわかるはずである。
そこで、気になるのが、花びらを摘み取る時の占い順序に疑問が残る。
1枚目=来る
2枚目=来ない
つまり、肯定→否定という順序。
これは花占いとしては極めて正統な順序である。
ところが、アグネスチャンの場合、
ここから豹変してしまう。
3枚目=帰らない
4枚目=帰る
つまり、1,2枚目の順序を崩してしまう。
肯定→否定→否定→肯定
これは詐欺行為である。
何度も言うが、ひなげしの花の枚数は、4枚しかない。
肯定から入れば、4枚目は必ず否定という悲惨な結果が目に見えている。
そこで、アグネスチャンは、3枚目を否定にチェンジすることで、事なきを得たわ
けである。
ディスク枚数:1
1. サークル・ゲーム
2. 雪
3. 美美(Mei Mei)
4. 想い出の散歩道
5. ひなげしの花
6. 星に願いを
7. ポケットいっぱいの秘密
8. 恋のシーソー・ゲーム
9. 美しい朝が来ます(アルバムバージョン)
10. ハロー・グッドバイ
11. 愛の迷い子
12. 白いくつ下は似合わない
13. 心に翼を下さい
14. 冬の灯台
15. 雨模様
16. つくり話
17. ひとつだけ
18. アゲイン
19. 愛はメッセージ
20. Try Again
ディスク枚数:2
1. 傘の中の夢たちへ
2. Love me little Love me long
3. 愛のララルー
4. 指定席
5. 卒業
6. 花嫁
7. 小鳳仙
8. 小さな質問
9. LIFE
10. Somebody’s Crying
11. 人はなぜ
12. やさしい関係
13. 水の中の太陽
14. ウ・フ・フ
15. あなたの肖像
16. 黄昏物語
17. Dream A Little Dream Of You
石野真子 駆け抜けた3年足らずのアイドル
石野真子は、それまでの正統派アイドルの路線を研究し、踏襲する形で、いわば、アイドルの王道を歩んでいった。
◎スター誕生で合格すること
◎堀越学園に進学すること
◎17歳でデビューすること(これは、70年代アイドルの分水嶺である)
◎デビュー曲は、明るい軽快なJ-POPの歌を振り付で、歌うこと
◎身長は150cm台。
17歳の時のスリーサイズが、身長 156cm、B 81cm、W 56cm、H 86cmというから、
体形的にも、標準的なラインである。
ちなみに、身長160cmを上回るアイドルが登場して、来るのは、航空会社や水着メーカーのキャンペーンガールの台頭まで待たねばならない。
作詞家は、当時名声を欲しいままにした、阿久悠。
それから、南沙織を手がけた有馬三恵子。
作曲家もJ-POP大御所の筒美京平、森田公一、馬飼野康二、川口真・・・・
でも、デビュー曲を手がけた「作曲家」を忘れてはいけない。
何と、あのフォークの吉田拓郎なのだ。
『狼なんか怖くない』
♪あなたも狼に変わりますか、あなたが狼なら怖くない・・・
石野真子の初レコーディングの時に、優しく励ましてくれたのが作曲者の吉田拓郎「先生」だと言っていた。
2曲目の『わたしの首領(ドン)』も作詞:阿久悠、作曲吉田拓郎だ。
♪わたしの首領と呼ばせてください
作詞の阿久悠さんにお聞きしたいのだが、
この歌詞は、北朝鮮で歌われることを想定してお作りになられたのだろうか?
歌詞でおもしろいのは、『ワンダー・ブギ』。
♪ブギウギ・シュワッチ・ブギ・ドゥワー
と、おどけた振り付けで、
鯨の背中の上で踊る、ビキニの娘を歌っている。
ビキニの娘の胸にみとれたオスのカモメが、海に落ちてしまう。
やきもちを焼いた、メスのかもめがビキニのブラを外してしまって、
パパイヤみたいな胸がむき出しになってしまう・・・
という過激な内容なのだが、
メルヘンになっているので、放送禁止にはならなかった。
『ジュリーがライバル』を紅白歌合戦で石野真子が歌ったとき、
サビの
♪ジュリーがラ~イバル
のフレーズの時、
白組から出演していた、沢田研二にテレビカメラが向けられた。
ジュリーが、おどけて歯軋りをしていた・・・のを懐かしく思い出す。
1981年に長渕剛と結婚を機に芸能界を引退した。
トップアイドルの電撃結婚、引退は当時のマスコミの話題を集め、ファンを嘆かせた。
アイドルとして活躍したのはわずか3年足らずだった。
「歩く性器」と言われた男と結婚するとは、ストレンジャーではなくて、
チャレンジャーだったな。
1.狼なんか怖くない
2.わたしの首領
3.失恋記念日
4.日曜日はストレンジャー
5.プリティー・プリティー(Pretty Pretty)
6.ワンダー・ブギ
7.ジュリーがライバル
8.春ラ!ラ!ラ!
9.ハートで勝負
10.めまい
11.彼が初恋
12.恋のハッピー・デート(Gotta Pull Myself Together)
13.彩りの季節
14.恋のサマー・ダンス
15.バーニング・ラブ
16.めぐり逢い
17.ガラスの観覧車
■石野真子 プロフィール
本名:同じ(いしの まこ)
誕生日:昭和36(1961年)年1月31日
出身:兵庫県芦屋市伊勢町
血液型:A型
身長:156cm
スリーサイズ:B 81cm、W 56cm、H 86cm(17歳当時)
Truth
2003年音楽活動を再開した彼女の作品は、本人作詞による「True」や阿久悠・吉田拓郎によるデビュー初期の作品「ぽろぽろと」などを収録した全6曲入りアルバムです。
1.キミへの想い
2.夏の花びら
3.TRUE
4.やわらかな幸せ
5.ぽろぽろと
6.Bouquet
海の記憶
歌手活動本格復帰作となる前年のミニ・アルバム「Truth」が好評を得た石野真子。
音楽活動再開後第2弾となる待望のミニ・アルバムは今回もさわやかな歌声に美しい旋律
がついて、彼女のそのままの雰囲気という感じのオシャレな楽曲に仕上がっていてとても素敵なアルバムである。
■石野真子の足跡
昭和52年4月「スター誕生」決勝大会に合格530点(合格点250点)
昭和53年1月堀越学園に転校
3月25日「狼なんか怖くない」でデビュー
4月1日ファンクラブ結成
6月25日「私の首領」発売
7月25日ファーストアルバム「微笑/石野真子」発売
8月24日日本テレビ音楽祭優秀新人賞受賞
8月27日西武園で一万人集会ミニコンサート実施
10月2日銀座音楽祭アイドル賞受賞
10月5日「失恋記念日」発売
10月12日新宿音楽祭金賞受賞
10月25日横浜音楽祭新人賞受賞
11月15日日本歌謡大賞放送音楽新人賞受賞
12月映画「九月の空」(松竹)公開
12月31日日本レコード大賞新人賞受賞
昭和54年1月25日「日曜日はストレンジャー」発売
2月10日ゴールデン・アロー賞新人賞受賞
2月14日ドラマ「熱愛一家・LOVE」スタート
2月18日ファンクラブ主催第一回ファンの集まいに200人参加
4月5日「プリティー・プリティー」発売
4月7日からファーストコンサート「MAKOINFANTASTIC」
大阪・名古屋・東京で行う
7月5日「ワンダーブギ」発売
7月16日野球チーム「PRETTIES」結成
7月22日からサマーコンサート大阪・東京・仙台・広島・福岡・
新潟・京都で開催
8月23日日本テレビ音楽祭金の鳩賞受賞
9月23日から夏休みでアメリカ旅行
9月25日「ジュリーがライバル」発売
12月31日NHK「紅白歌合戦」初出場
昭和55年1月1日「春ラ!ラ!ラ!」発売
1月13日ニューイヤーコンサート東京ほか
1月31日「恋のキャッチボール」出版
2月7日ザ・ベストテン初出演「春ラ!ラ!ラ!」9位にランクイ ン
2月11日大阪フェスでコンサート
3月3日堀越学園を卒業仕事が忙しく一年留年して努力で卒業
ドラマ「なさけ坂旅館」スタート
3月20日からスプリングコンサート
4月5日「ハートで勝負」発売
5月25日ドラマ「およめちゃん」好評でシリーズ3話まで制作
7月5日「めまい」発売
7月19日からサマーコンサートツアー全国18カ所
7月31日トロピカルオーシャンツアー800人のファンと
さんふらわあ号で太平洋上を航海
8月28日日本テレビ音楽祭トップアイドル賞受賞
9月25日「彼が初恋」発売
10月13日ドラマ「竹とんぼ」始まる
11月18日ドラマロケで一週間ディズニーランドへ行く
11月21日「恋のハッピーデート」発売
12月31日NHK「紅白歌合戦」出場
昭和56年2月5日「思いっきりサンバ」発売
4月21日「彩りの季節」発売
6月21日「恋のサマーダンス」発売
7月21日「バーニング・ラブ」発売
8月31日引退
■ファンサイト:
本田美奈子
2005年11月6日に永眠された、本田美奈子さんのご冥福をお祈り申し上げます。
思えば、短くも激しく生きた人生だったと思います。
本田美奈子さんは、
友達と遊びに行った原宿でスカウトされ、ボンド㈱に所属し芸能界入り。
1985年4月20日に東芝EMIより「殺意のバカンス」にて(当時17才)デビュー。
同じ事務所には、松本伊代・大場久美子・新田恵利さん等が所属していたというから、いわゆるバリバリの”80年代アイドル”だったのです。
でも、本田美奈子さんは、「おニャン子クラブ」のような一過性のアイドルで終わらなかったのです。
わたしがアイドルとして認識していたのは、東芝の家電品のイメージガールとしてCMに出演していた頃までですね。
その後、ロック歌手に転向します。
ここまでは、売れなくなったアイドルのよくあるパターンです。
例えば、五十嵐夕紀さん・・・・。
ところが、本田美奈子さんのあくなき新しいことへのチャレンジは終わらなかった。
1992年の「ミス・サイゴン」主役のキム役を12000人の中からオーディションにより実力で選ばれます。
1994年4月には、「屋根の上のバイオリン弾き」で次女ホーデルを演じ、
また、2000年で4回の出演となった「レ・ミゼラブル」では、エポニーヌ役を熱演。
これらミュージカルで、本田美奈子の違った一面を開花させ、アーティストとして大きく成長。
そして「王様と私」のタプチム役など数々の役柄を好演し、ミュージカル界で頭角を現すようになったんですね。
2000年には8月にシドニーのオペラハウスで『日豪親善コンサート』に参加、国際的なミュージカル歌手として認められました。
2002年10月19日にはピーボ・ブライソンとのデュエット『美女と野獣』も発売され、2003年の5月21日には“SOPRANO VOCAL”アルバム『AVE MARIA』をリリース。
しかし・・・・
2005年1月、急性骨髄性白血病であることを告白。
医師から6ヶ月の治療が必要と言われ、ミュージカルなどの全ての仕事をキャンセルして治療に専念することを発表。
今年はデビュー20周年と言う節目の年であった
2005年11月6日、同病により永眠。法名(浄土真宗の戒名)は「釋優聲」。
合掌。
■本田美奈子のプロフィール
本名:工藤美奈子
生年月日:1967年7月31日
血液型O型
出身地:東京都葛飾区柴又
趣味:野菜作り、ガーデニング、ドライブ、ゴルフ、
特技:料理
好きな食べ物:ふぐ、あんきも、野菜
■数々の栄誉ある受賞
第8回長崎音楽祭グランプリ受賞、
第4回メガロポリス歌謡祭(TV東京)最優秀新人賞ダイアモンド賞受賞
1985年全日本歌謡音楽祭銀賞受賞、
第16回日本歌謡大賞優秀放送音楽新人賞受賞、
第18回日本有線大賞新人賞受賞(TBS)、
第18回全日本有線放送大賞新人賞受賞(YTV)、
第23回日本レコード大賞新人賞受賞(TBS)、
第23回ゴールデンアロー賞音楽部門新人賞受賞、
第12回日本テレビ音楽祭金の鳩賞受賞、
ANB'86全日本歌謡音楽祭最優秀タレント賞受賞、
第19回日本有線大賞有線音楽賞受賞(TBS)、
1987年 ゴールデンアロー賞グラフ受賞
「ベスト・ジーニスト'87」第1位(女性部門)
2003年「第2回日本ゆかた大賞」
■オフィシャルサイト
http://columbia.jp/~minako/index2.html
■ファンサイト
http://homepage2.nifty.com/honda-minako/
南沙織
今の時代は、ネット専門のアイドルとか、巨乳アイドルとか、バラドルとか、アイドルの狙うマーケットはニッチな方向に加速している。
逆に言えば、時代をさかのぼるほど、ファンの年代層は広い。
例えば、三人娘の江利チエミ、雪村いずみ、美空ひばりの時代は、ほぼ国民こぞってのアイドルだった。
70年代の新三人娘といえば、
天地真理、小柳ルミ子、南沙織である。
この時代に入ると、少し、アイドルの支持層にも変化が見られる。
天地真理は、かなり幅広いいわゆる国民的アイドルだったが、
小柳ルミ子は、どちらかといえば、おじ様にとってのアイドル。
そして、南沙織は、若者のアイドルだった。
わたしの中学時代には、中高生が南沙織の圧倒的な支持層だった。
おとなたちにとって、南沙織は、「色の浅黒い、パッと見栄えのしない女の子」だった。
当時は、天地真理のような色白のアイドルが主流だったからだ。
南沙織の浅黒い肌と、つややかに光る長い黒髪。
黒目がちの大きな瞳。
超ミニスカートからスラっと伸びた足
・・・は、若者にとって、アイドル観を一変させるほどのインパクトがあった。
フィリピン系のハーフで奄美大島生まれの沖縄育ち。
クリスチャンで洗礼を受けた名前・・・
「シンシア(Cynthia 月の女神の意)」。
生い立ちそのものが、従来の女性歌手にない、エキゾチックなものだった。
デビューするために、沖縄から飛行機で上京するときのエピソードだ。
南沙織は、空港で、重い荷物を、運んでいた。
たまたま、居合わせた当時の人気アイドル歌手だった、西郷輝彦は、
「重そうだね、持ってあげようか?」と声をかけた。
というエピソードを、明星か平凡かで読んだことがある。
南沙織がデビューしたのは、1971年6月。
デビュー曲「17才」(作詞:有馬三恵子、作曲:筒美京平)は、
三人娘のデビュー曲の中で、一番ポップな歌だった。
♪だ~れも、いない海・・・・
「17才」は、後に森高千里らもカバーして再びヒットしている。
沖縄返還(1972年5月)を前にした時期であった。
写真家・篠山紀信との結婚も衝撃的だった。
当時、篠山紀信は『激写』という単語を流行語にするほど、若者に支持された写真家であった。
次から次へとアイドルや素人の女の子を被写体にしていった。
あまたのアイドルの中で、篠山紀信のお目にかなったのが、南沙織。
さすがに、杉山清貴とオメガトラ・・・・いや、「お目が高い」。
その後、10年以上、東京・港区の自宅にこもって家事と育児に専念していた。
男の子3人をもうけ、幸せな結婚生活を送る。
明治チェルシーの歌
明治のお菓子チェルシーのCMソングばかりを集めた、変わった全曲集。
この中に南沙織の歌が収録されている。(1976年)
THE BEST~Cynthia-ly
永遠のカリスマ・アイドル、{シンシア}こと南沙織のヒット・シングルを中心に構成されたベスト・オブ・ベストな全23曲入り。本盤は、78年の引退時までに限定してのセレクションとなっている。
1.潮風のメロディ
2.人恋しくて
3.純潔
4.傷つく世代
5.木枯しの精
6.哀愁のページ
7.色づく街
8.17才
9.ともだち
10.哀しい妖精
11.春の予感-I’ve been mellow-
12.早春の港
13.愛なき世代
14.想い出通り
15.ひとかけらの純情
16.夏の感情
17.バラのかげり
18.あの場所から
19.Ms.(ミズ)
20.街角のラブソング
21.ゆれる午後
22.シングル・ルーム
23.グッバイガール ※〈CD/SA-CDハイブリッド仕様〉
■南沙織のプロフィール
○1954年7月2日(蟹座) 本名は内間(現篠山)明美。
○1971年6月に「17才」でデビュー。
「哀愁のページ」「色づく街」「人恋しくて」などヒット曲を連発。
○1974年、よしだたくろうとかまやつひろしが「シンシア」という歌を
捧げる。
○1978年、上智大に進学し、芸能界を引退。
○翌1979年写真家・篠山紀信と結婚。アイドルとして伝説化。
○1991年、10年以上のブランク後、「NHK紅白歌合戦」で突然カムバック。
○1993年、NHK大河「琉球の風」に出演。
現在でも「美貌は衰えるどころか、デビュー当時よりも透明感が増しているイメージさえある」として彼女を慕い続ける中年男性ファンがいる。
▼オフィシャルHP
▼ファンサイト
小柳ルミ子
小柳ルミ子を語らずして、私の思春期は存在しない。
天地真理、南沙織らとともに1970年代を代表するアイドルであった。
正直、「わたしの城下町」でデビューした頃は、「タラコ唇のオバサン」だと思っていた。
当時、中学生の自分には、19歳のアイドルも「おばさん」だった。
あまり好きなタイプではなかった。
ところが、高校生になり、思春期に突入すると、小柳ルミ子の評価は一変する。
三人娘の天地真理、南沙織と較べて、プロポーションが格段に素晴らしいことに気づく。
その頃はすでに、清純アイドルとしてよりは、色っぽいお姉さんという感じにご本人も成長していたのだ。
大学に入ると、尚いっそう、小柳ルミ子に惹かれていく。
あの形の良い豊満な胸、男の太ももぐらいの太さしかない、くびれた腰・・・・
本人も、成熟した大人の魅力をフェロモンのように漂わせていた。
■小柳ルミ子のプロフィール
本名:小柳留美子 1952年(昭和27年)7月2日生まれ。福岡市出身。
○1970年(昭和45年)に宝塚音楽学校を主席で卒業。
そのまま「夏川るみ」の名で宝塚歌劇団に入団するも初舞台のみで退団。
同年、NHK連続テレビ小説「虹」で女優としてデビュー。
○1971年(昭和46年)に「私の城下町」で歌手デビューし、その年のレコード大賞新人賞を受賞。
その後、「京のにわか雨」や「瀬戸の花嫁」、「星の砂」、「お久しぶりね」、「今さらジロー」などの大ヒット曲を飛ばす。
○1988年 ワーナーパイオニアレコードへ移籍
○1990年 ㈱渡辺プロダクションより独立し、 ㈱テンプテーション設立
○1993年 夕刊フジ「小柳ルミ子の踊る告白今夜も大胆」連載
○2000年 フジTV「うつみ&ルミ子の思い出ボロボロ」でレギュラー初司会 。
デビュー30周年
大場久美子~コメットさん
2005年9月25日に行われた神奈川県秦野市の秦野たばこ祭で、
大場久美子のシークレットライブ(そこまで言うか!)がありました。
青春アイドル大集合ということで、
他に伊丹幸雄とあいざき進也が出ていました。
往年のアイドルを彷彿させる、フリフリの衣装で現れた大場久美子ちゃんは、バトンを振り回しながら、コメットさんの歌を歌ってくれました。
2曲目の途中から、客席まで降りて、握手してくれる大サービスに感激しました。
デビュー30周年らしいです。(赤ちゃんの時から歌っていたと言ってた)
さすがにスプリングサンバを歌っった後は、息切れしてましたね。
天地真理
一世を風靡した数あるアイドル歌手の中で、天地真理ほど、原型を損ねていったアイドルはいない。
幼い頃、ドレミ真理ちゃんの自転車を買ってもらった女の子は、もし今、手許に自転車があれば、叩き壊したい心境になるだろうし、
松浦亜弥のキャピキャピしたCMを見るたびに、ファンは、「やがては天地真理・・・」という悪夢を打ち消そうと必死になっているに違いない。
左のジャケット写真を見て欲しい。
テニスルックが何とも可愛らしかった。
先日、カラオケで本人出演の『恋する夏の日』を歌ってみたが、この時もテニスルックだった。
出てきた本人映像に、諸行無常を感じてしまったのは、わたしだけだろうか?
白雪姫と呼ばれていた頃、自分の鼻が少し大ぶりで、上を向いていること、・・・はっきり言えば、団子っ鼻であることを指摘されて、
「あら、こういう鼻は、アップノーズといって、外国ではモテるのよ。」
と言っていた。
説得力があった。
アバタもエクボである。
でも、今、テレビでそういうことを言ったら、抗議が殺到するだろうし、下手をすると放送禁止になりかねない。
でも、このCDは欲しくなってしまう。
自分の青春の証として。
自分も同じ時代を生き、同じように年齢を重ねていることを忘れてはいけない。
GOLDEN☆BEST / 天地真理 コンプリート・シングル・コレクション・アンド・モア
disc 1:
1 水色の恋
2 ちいさな恋
3 ひとりじゃないの
4 虹をわたって
5 ふたりの日曜日
6 若葉のささやき
7 恋する夏の日
8 空いっぱいの幸せ
9 恋人たちの港
10 恋と海とTシャツと
11 想い出のセレナーデ
12 木枯らしの舗道
13 愛のアルバム
14 初めての涙
15 さよならこんにちわ
16 夕陽のスケッチ
17 矢車草
18 愛の渚
19 夢ほのぼの
20 愛・つづれ織り
21 初恋のニコラ
22 私が雪だった日
23 夏を忘れた海
disc 2:
1 一枚の写真
2 レイン・ステイション
3 家なき子
4 ある恋の感想
5 明日また
6 明日への愛
7 小さな人生
8 一杯のレモンティー
9 ひまわりの小径
10 恋の風車
11 ある雨の日の情景
12 サルビアの花
13 あなた
14 牧場の乙女
15 明日への出発
16 渚の誓い
17 さよならは心をこめて
18 素晴らしい青春
19 わたしの場合
20 ブランコ
21 君よ知るや南の国
22 ひとかかえの愛
23 また逢うためにさようなら(ライブ)
■天地真理の応援サイト
■天地真理のプロフィール
本名 青木 真理(あおき まり)
1951年11月5日 生まれ。埼玉県出身。
1971年7月、TBS系の人気番組『時間ですよ』で堺正章の憧れる「隣のまりちゃん」役でデビュー。
同年10月、アイドル歌手として「水色の恋」で歌手デビュー。
以後、「小さな恋」、「ひとりじゃないの」、「虹をわたって」、「ふたりの日曜日」、「空いっぱいの幸せ」、「恋人たちの港」、「恋する夏の日」、「想い出のセレナーデ」などの一連の大ヒット曲を飛ばし、南沙織、小柳ルミ子とあわせて新三人娘と呼ばれるようになる。
1972年、松竹映画「虹をわたって」に主演。
1972年から75年にかけてTVに冠番組「真理ちゃんとデイト」、「となりの真理ちゃん」、「とび出せ!真理ちゃん」、「アタック!真理ちゃん」、「はばたけ!真理ちゃん」。
1978年、病気で一時芸能界から離れ、1979年に復帰するがヒット曲が出ず自然消滅。
1982年9月に再々デビューした。フジテレビ系の『おれたちひょうきん族』にレギュラー出演。
1985年ににっかつ映画『魔性の香り』に主演。
1986年に結婚し翌年女児を出産。
1996年に離婚。
能勢慶子 女優としての才能
能勢慶子は、歌手としての才能だけでなく、女優としても華やかなデビューを飾る。
昭和55年、赤いシリーズ第8弾「赤い嵐」のヒロイン、小池しのぶとして人気を博していた。
「赤い嵐」は、山口百恵の「赤い」シリーズ、「赤い運命」「赤い衝撃」などが有名である。
だが、わたしのイチオシは、能勢慶子の「赤い嵐」である。
記憶喪失になった娘を演じる、能勢慶子のあどけない顔とクサイ演技を毎週楽しみにしていた。
『赤い嵐』の演技は、のちに続く、堀ちえみの『スチュワーデス物語』の原型ともいえる番組だった。
クサイ演技、シナリオは、堀ちえみに受け継がれて花開く。
思えば、能勢慶子のデビュー曲が、『アテンションプリーズ』だったことを思うとき、堀ちえみの『スチュワーデス物語』との因縁を感じずにはいられない。
豆腐屋を営む大野夫婦(松村達雄・淡島千景)の三男の警官・真(柴田恭兵)は、池に身を投げようとしていた娘(能瀬慶子)を助けた。彼女は記憶を全く失っていて、自分の名前すらわからない。
「ううう、わからない。真さん!」しのぶ役の能勢慶子がそう言って、泣くと、
警官、真役の柴田恭兵が、例の句読点がバラバラの喋り方で答える。
「しの、ぶちゃ、ん。俺、しの、ぶちゃんのこ、とをま、もって、あげ、るか・・ら。」
そこで、松村達雄がうなる。
「んー、しのぶ。豆乳だ。」
その後、突如として、芸能界を引退。
湯島天神で太鼓を叩いていると報じられたが、
今は、普通の主婦として、子宝に恵まれて、幸せに暮らしているらしい。
能勢慶子 歌手としての才能
君は能勢慶子を知っているだろうか??
昭和54年1月、『アテンションプリーズ』でデビューした。
ニッポン放送のマスコット・ガールにもなった。
わたしは、大学の頃、LPレコードのジャケットがあまりに可愛かったので、思わず買ってしまったのだ。
浅田美代子、石川秀美等々音痴アイドルは沢山いるが、能勢慶子ほど、”突き抜けた””爽やかな”音痴アイドルは居ないだろう。
しかし、デビュー曲の音楽性は高いのである。
何故なら、あの浜田省吾がプロデュース、作詞作曲しているのだ。
デビュー曲『アテンションプリーズ』の
♪わーたーしをーーうーけーーとぅぉーーーめぇーーてゑーーー!!!
本当のメロディがいまだにわからない。
第2弾は、『裸足でヤングラブ』
タイトルは寒くなってしまうが、これもハマショーの作詞作曲。
♪ヤング、ラブ・・・ヤング、ラブ、ネバー・ストオップ!
このネバーストップというフレーズが、「寝ましょう」に空耳で聞こえてきて、ドキドキした。
まだ、カラオケの曲目に入っている(歌っています)。